俺の家の話 (第8話・2021/3/12) 感想

TBS系・金曜ドラマ『俺の家の話』(公式)
第8話『仁義なき家族バトル 親父、涙の終活宣言』の感想。
寿一(長瀬智也)は寿三郎(西田敏行)の指示で、寿限無(桐谷健太)から「隅田川」を教わることに。プロレスは、次の試合で負けたら今度こそ引退だと考えていた。その矢先、寿一は足を負傷し、しばらく車椅子生活を送る羽目に。同じ頃、寿一から‘間違いスタンプ’を受信した踊介(永山絢斗)や夫の長田(秋山竜次)ともめる舞(江口のりこ)、寿三郎とぶつかった寿限無が家に寄りつかなくなる。
---上記のあらすじは[Yahoo!テレビ]より引用---
原作:なし
脚本:宮藤官九郎(過去作/あまちゃん、ゆとりですがなにか、いだてん)
演出:金子文紀(過去作/G線上のあなたと私、恋つづ、逃げ恥) 第1,2,7話
山室大輔(過去作/天皇の料理番、グランメゾン東京、テセウスの船) 第3,4,8話
福田亮介(過去作/初めて恋をした日、恋つづ、恋する母たち) 第5,6話
音楽:河野伸(過去作/おっさんずラブ、恋つづ、天使にリクエストを、知ってるワイフ)
まえがき
前回の感想は、大変投稿が遅くなり申し訳ございません。今回は、いつもより早起きして書きました。とは言え、今回も、公私混同の拙い駄文、長文の感想ですが、最後まで読んで頂ければ幸いです。
コロナ禍で制作中のテレビドラマには大きく3タイプがある
私、毎回本作のアバンタイトルに大変興味があって、都度いろいろ書いている。さて、皆さんもご存知の通り、今期放送されている連ドラの半分以上が、コロナ禍の過酷撮影環境下で制作されている。
そのドラマには「マスク着用でコロナ禍を強調するタイプ」と「マスク非着用でコロナ禍を感じさせないタイプ」と「時々、マスク着用でコロナ禍を都合よく利用するタイプ」の大きく3タイプがあるのはご存知の通り。
本作が「マスク着用でコロナ禍を強調するタイプ」の価値
「フィクションだから」と言う考えもあろうが、私に限って言えば、昨日の投稿『妻(医療従事者),コロナワクチン[1回目]接種後72時間経過しました』にあるように、且つ、収入激減によって、否応なしに「コロナ禍」を意識している毎日だ。
だから、本作のような介護と言う、これまたコロナ禍ではクラスターが発生しやすい業務や働きかけについて描くドラマを、脚本家の苦労官九郎氏が、しっかり「マスク着用でコロナ禍を強調するタイプ」を選んだことに、ある種の敬意を払って見ている。
冒頭のタクシー車内のシーンの劇伴の選曲がピッタリ!
だが、普通は「マスク着用でコロナ禍を強調するタイプ」にすると、どうしても現実味が増す。増すから、フィクションに見えにくい。架空の世界なのに。そこを、いつも上手く「導入部分」で “現実から架空” へ誘(いざな)ってくれるのが、毎回のアバンタイトルだ。
今回も寿一(長瀬智也)がプロレスの覆面(マスク)ON マスクで軽くコミカルに。そして、介護を描くドラマだと承知なのに “ラブ要素”。この辺の繋ぎも良いのだが、今回の感想で初めて触れるのは、このアバンタイトルの背後に流れる劇伴のこと。
既に発売中のサントラ盤(下記に購入用のリンクがあります。是非ともご購入を!)の14曲目に囚虜くされている「♪淡い恋心」と言う劇伴だ。タイトルと内容がこれほどピッタリな選曲あるだろうか。今回も、いろいろな視点で感想を書こうと思う。
「いばらの道」と表現した上で「ぬるま湯のような家庭」…
そして、ちょっといいなあと思ったのが、アバンの中で二人の結婚を、寿一は「いばらの道」と表現した上で、「ぬるま湯のような家庭」を作りたいと言った場面だ。ここ、普通なら「いばらの道」に対して「平穏な家庭」とか「希望にあふれた人生」と言う感じのシーン。なのに、寿一は「ぬるま湯」と表現した。
それこそ、「前途多難な道」を歩んで来た寿一だから、「のんびりした家庭」を望むのは分かる。が、敢えて「ぬるま湯」と言う表現を使うことで、寿一にとっては、自分に対して “甘え” があることを認識しているようにも見えるし、常に父・寿三郎(西田敏行)の介護での入浴介助が頭の隅にあって、ついそれを比喩に使ったとも受け取れる。
「ぬるま湯みたいな家庭をつくろう」の新鮮味…
とにかく、「ぬるま湯みたいな家庭」は、寿一の自分への厳しさと、介護の苦労、そして能の稽古の大変さなどを大きく包み込んだ優しい表現だと思う。
私は、26年以上3,000件近くの結婚披露宴を見て来たが、「笑顔の絶えない家庭」とか「幸せの溢れる家庭」を目指しますと言う謝辞は良く聞くが、「ぬるま湯みたいな家庭をつくろう」と言うのは聞いたことがない。こう言う稀な言葉選びのセンスも、宮藤官九郎氏らしくて、何気にチャックしたくなる部分だ。もしかして、今後の披露宴で流行るかも…
コロナ感染拡大の影響で仕事のキャンセルが止まらない…
「冒頭の3分間で、どれだけ感想を書くんだよ!」とお叱りと呆れを感じている読者さんも多いと思うが、この週末の婚礼の仕事が、東京と千葉県の新型コロナウイルス感染拡大が下げ止まらないことを受けて、直前でキャンセルになったから、その鬱憤(うっぷん)を感想に込めているので、何とかご容赦頂きたい。
夕食の場面での寿三郎の「要支援2」にツッコめたら一人前?
さて、観山家の夕食シーンで、寿三郎が、最初自身の看護認定度を「要支援2」と間違えた。恐らく、当blogの常連の読者さんなら、寿一のモノローグよりも速く「違う。要介護2。それも3に近い要介護2」とツッコんだに違いない。
こうやって、介護に興味の無かった人たちに、介護認定度を自然に意識させる本作に、15年近く前は、介護の「か」の字も知らなかった私にとって、実に介護に対する偏見や過ちを是正するドラマとして、頭が下がる思いだ。15年前に本作があったら… と、思う。
寿一を能楽師として認めたことを「シテは」の一言で表現!
5分過ぎに、稽古場に寿三郎と寿一を寿限無(桐谷健太)が集まって、演目「隅田川」について語る場面があった。その中で寿三郎が「シテは」と言う台詞が出て来た。私の拙い能の知識で解説すると。
能楽では、演者の中の主役を「シテ」、その相手役を「ワキ」、シテの助演役を「ツレ」、進行役や助演役を「アイ」と呼び、音楽担当するスタッフを、謡(うたい)を合唱する「地謡(じうたい)」や、器楽を演奏する「囃子(はやし)」と呼び、それぞれ、シテ方、ワキ方、囃子方、狂言方(「方」は全部「かた」と読みます」と言4つのグループに分かれて専門の役割を演じるのが定型の様式美。
と言うわけで、遂に寿三郎が寿一に「主役」の稽古をしろと、寿一を能楽師の一人として認めたことを「シテは」のたった一言で表現したのだ。それも解説無しで。そこが、クドカン脚本の潔さであり、クセになるところなのだ。
今回は見事に「というわけで 今日は ほとんど俺の家の話だ」
更に、いつも「これが 俺の家の話だ」で、アバンを締め括ってオープニング映像へ突入するのに、今回は寿一がアキレスけん断裂で2週間の車椅子生活になったことを受けて、「というわけで 今日は ほとんど俺の家の話だ」で締め括った。
いつも、殆どが観山家の話だが、ここで “ほとんど” を付けることで、前回は寿一の別れた妻の話だったことを思い出させて、連ドラとしての連続性を強調。こう言うさり気ない一言も上手いと思う。
正に "ほとんど" の種明しも見事だ
15分過ぎから、アバンでの “ほとんど” の理由が見えて来た。寿一とさくら(戸田恵梨香)との “秘すれば花” ならぬ、踊介(永山絢斗)に対する “秘する恋” と、舞(江口のりこ)の夫・O・S・D(ロバート/秋山竜次)の “秘する浮気バレ” のエピソードが盛り込まれたことが分かる。
その上、先日の寿限無の誕生秘話と寿三郎の浮気話、車椅子生活の寿一と、更にのちに寿三郎の介護施設入所の話も加わるだろうから、正に “ほとんど”。種明しも見事だ。
舞が積もり積もった "しんどさ" を熱く語ったのが意外…
そして、意外だったのは、いつも明るくコミカルに、時に厳しく振る舞っていた舞が、「生まれた時から 数に入っていないわけよ」と、これまで男性社会である能楽の総本家に生まれた「女児」の、積もり積もった “しんどさ” を熱く語ったこと。
これまで、舞については本作に於いて深掘りされて描写されていなかったが、江口のりこさんの瞬発力抜群の演技力で、舞の気持ちがしっかりと伝わって来た。
そして、全ての根源でもある父・寿三郎に対して、冷めた目で「結構です! どうせわすれちゃうんでしょ」と言った舞の、介護をしたくても仕事が忙しいのと、この “しんどさ” から、きっと思うように父親の介護をしたくなる気持ちになれなかった一人娘としての辛さや悲しみが、「3に近い要介護2」の父を慕う気持ちに重なって泣けて来た…
広い敷地のひとつ屋根の下に車椅子生活の親子だけになる
今回も、スルー出来るシーンが本当に少ない。寿三郎が、車椅子生活の寿一が治るまで風呂に入らないと言う。理由は、寿限無に「何か 身を任せられないっていうか 早く出たくなっちゃうんだよ」、「俺は やっぱ 寿一がいい」と。寿一はその気持ちを “後ろめたさ” と言うが…
このやり取りを寿限無が聞いている。切ない怒りが込み上げる寿限無。これまで、ずっと「俺じゃない」と思い続けて来た寿限無の気持ちを察すると、家を出たくなる気持ちもわかる。その一方で、恐らく階段の下で寿一と寿限無のやり取りを聞いていた寿三郎の一筋の涙。本音と後悔が入り混じった “師匠と弟子”、“父親と息子” の複雑な涙の別れ。
踊介、舞、寿限無と、寿三郎にとっては3人の子ども、寿一にとっては3人のきょうだいが、家を出た。そして、寿一は車椅子生活1か月の診断。ここまで22分。圧巻の前半戦。本当に次の展開が気になってしょうがない。だって、広い敷地のひとつ屋根の下に車椅子生活の親子だけになるのだから…
葬儀の計画について話すのだから、切な過ぎるにも程がある
CM明けから秀逸なのは、「ほとんど俺の家の話」と序盤で高らかに謳っておきながら、後半戦の幕開けは、寿一と寿三郎の二人だけのシチュエーションを舞台にしたことだ。もちろん、先日の「旅情篇」も恐らく “昨今のコロナ禍の事情” でワンシーン内の出演者を減らすと言う意図があるとは思うが。
「最後(かも知れない)の家族旅行」で結束した観山一家が、父と息子の二人だけになってしまい、それも父親の「終活」、葬儀の計画について話し始めるのだから、切な過ぎるにも程がある。でも、この切なさをドラマの中盤に据えて、家族、介護、親子を真正面から更に描こうと言う脚本家の強い意志が伝わって来た。
寿三郎が「この鏡板の前に 立派な この祭壇 作ってさ」…
さて、ここで私の拙い能楽の解説を、葬儀の話をしている際、寿三郎が「この鏡板(かがみ・いた)の前に 立派な この祭壇 作ってさ」と言う台詞があったのを覚えておられるだろうか? 諸説あるが、私が信じている説を簡単に説明してみる。
本来、能は屋外で演じられる芸能であり、舞台正面先にあると想像される「影向(ようごう)の松」が舞台側に写った(反射した)ものとされている。だから、能舞台の背景の板を「鏡板」と呼び、松の絵が描かれている。その昔、「影向の松」に神様が乗り移って舞を舞い、疫病を退散したと言う。
そんな神聖でご利益のある松に向かって舞うのが、能の本来の舞い方なのだが、観客へお尻を向けて舞うわけにはいかない。そこで「あくまでも、影向の松に向かって舞っています」と言う体(てい)で、「鏡に映した松」になっており、その松の図案も「寿」の文字を左右反転させたデザインになっている。
©TBS
録画や見直し配信で見て欲しい。だから、能舞台は、神仏に守られている舞台装置なのだ。従って、寿三郎が「この鏡板の前に 立派な この祭壇 作ってさ」と、我々に背を向けて言った意味は、もうお分かりだと思う。これが、「能楽」そのものなのだ。
そんな深い意味を持つシーンを、「遺影」と「イエイ」で巧みに崩すのがクドカン流の照れ隠しだと思うと、ニヤケテしまうではないか…
さくらと、ケアマネ末広のやり取りも良かった
さて、久し振りにさくらが登場して、「介護職員初任者」の認定を受けたと言う。この資格が介護を生業とするには介護業界の資格のピラミッド構造の一番下。でも、この資格がないと、掃除や洗濯・料理などの「生活援助」は出来るが、利用者さんの身体に触れて食事・入浴・排せつなどの日常生活を支援する「身体介護」が出来ない。
だから、訪問介護や施設介護をするには必修条件の資格なのだ。130時間の講習を受けなければならない、結構大変な資格。でも、その苦労を見せずに「一緒に お風呂 入れます」と、ちょっと色っぽくやり過すごすのが、さくらの魅力。
このあとの、ケアマネージャー・末広涼一(荒川良々)のシリアスな展開直前のオアシス的なシーン(“天国” か…)へしてあるのも、メリハリがあって良いと思う。
在宅介護から、グループホームでの介護へ切り替える話
いよいよ、在宅介護から、グループホームでの介護へ切り替える話になった。寿一は「何とか 在宅で」と願うが、「できてないじゃん」と末広が冷静に一言で返した。そして更に「ここにいても 今より よくはありませんよ」と寿一へ現実を告げる。
ここ、わざわざ私が解説するまでも無いが、私自身も “罪悪感” あったし、私の時は “無力感” に襲われた。その時、母は「4に近い要介護3」だったが、母は最期まで在宅介護を望んでいた。でも、家族はそれなりに疲弊していた。だから、在宅介護は限界に来ていたと思った。
しかしその時の私たちのケアマネさんは、「お母さんの望み通り、在宅介護で看取りましょう」と言ってくれた。母が住む家は東京都内にあって、特養もグループホームも順番待ちで予定が立たなかったのだ。でも、母の認知も体力もどんどん悪化する。よくはならない。だから、ヘルパーさんたちも、「在宅で頑張らせて下さい」と言ってくれた。
嬉しかった。結果的に、それから数年後、一昨年の秋に自宅のベッドで母は望み通りに息をひき取った。私は瞬間を看取ることは出来なかったが、葬儀を通して判断は間違っていなかったと思った。きっと、答えは「イベントが終わってから」しか出ないのだと思う。(私事で恐縮です…)
「ビデオメッセージ」を撮影する場面の劇伴にも注目
寿三郎が鏡板を背景に、「ビデオメッセージ」を撮影する場面で、さくらが録画画面に入り込んでから薄っすら背景で流れる劇伴がサントラ盤24曲目に収録されている「♪洗濯日和~夕暮れ時」だ。正に、洗濯日和のぬくぬくとした温かさと、夕暮れ時になるにつれ、少し気温が下がって来る切なさが絶妙に表現されている、私の好きな劇伴の一つだ。
この曲を、死後に放映するビデオの撮影風景に使うセンスも好きだ。そして「空(から)舞台(画面上に誰も映っていないこと」のスマホの画面を見る寿一のアップで、劇伴がピタリと止まる。寿一の決意だ。
寿三郎の徘徊、駆け付けた末広、寿一の感謝の気持ちの告白
41分過ぎ、寿三郎が夜に徘徊した。もう、この辺りから、涙腺が刺激され始めた。
実は私の父は、深夜に母の目を盗んでコンビニへ煙草を買いに行き、店先で転んで救急車に運ばれた。その日は日曜日で舞浜のホテルで結婚披露宴の仕事が入っていたため、仕事が終わったら都内の病院へ行くつもりでいた。
しかし、これも運命なのか、披露宴が終わった瞬間にケアマネさんから携帯電話に入電があって「すぐ、病院に来て下さい」と言われ、次の朝、転倒時に頭を打ったのが悪かったようで、月曜日の早朝に息をひき取った。父のお陰で仕事に穴をあけずに済んだと、今でも父には感謝している。
だから、この寿三郎の徘徊、駆け付けた末広、寿一の感謝の気持ちの告白は、他人事には見ていられなかった…
寿一と寿三郎の切ないやり取りと「納豆と梅干」を深掘り!
夜中に隅田川沿いで寿三郎が見つかった翌日だろうか。寿一が寿三郎に末広がやっているグループホーム「照る照るハウス」の話をするシーンは、凄かった。
何が凄いって、寿一の「行って欲しい」と「行きたくないと言ってくれ」の気持ち、寿三郎の「行きたかない」と「行って欲しいんだろ」と言う気持ちの、行ったり来たりの切なさが、納豆と梅干の朝ご飯で描かれていた点だ。
ご存知の方もいらっしゃると思うが、世の中には「食べ合わせ」と言うものがある。良いのもわるいのもあるが、「納豆と梅干」の食べ合わせは実に良いのだ。
梅干しを作る際に生成される梅酢には、梅酢ポリフェノールと言うインフルエンザ症状の抑制や風邪の予防に効果的な成分が入っており、納豆には元々ネバネバに免疫力アップの効果があるため、健康な体作りに抜群の相性。抜群の食べ合わせの中で、何とも切ない父と息子の会話劇。ギュッと詰まっているのが凄いのだ。
「もう いいよ 早く行けよ」と泣きながら呟く寿一に泣いた…
48分頃、寿一と寿三郎の二人だけで「照る照るハウス」へやって来た。何となく心配させたくないとのおもいなのからか、少し強がって他人行儀になった父に、スケベなトランプを手渡す息子。そして、父も息子も涙が溢れる。止まらない。
空元気で「ブリザード!」と叫んでこぶしを突き上げる寿三郎に、言葉が出ない寿一は拳を天高く掲げるだけしか出来ない。いつまでも息子の背中を見続ける父の視線を感じる息子は「もう いいよ 早く行けよ」と泣きながらつぶやく…
いつでも親との別れは切なく苦しい。でもそれが「親の介護」
ここから書くことは、7,8年近く前、私の母を施設に預けるかどうか悩んだ時に、ケアマネさんが言ったことなので、全てのケースに当て嵌まることではないことを前提に書こうと思う。そのケアマネさんは特養とグループホームを経営する介護施設の職員さんで、実は、別れ際に泣く家族はあまり見たことがないと言っていた。
どちらかと言えば、「やっと入居させることが出来た」と言わんばかりに、逃げ帰るような家族がたくさんいると。恐らくそれは、前述の “罪悪感” や “無力感” の反動的な行為かも知れないが。そんなことを聞いていたから、今回の寿一が寿三郎との様々な思い出を振り返って、我慢しきれずに涙を流したシーンは、涙がこぼれてしまった。
親身内を施設に預けることを決めるのは、預ける身も預けられる(と言う表現が適切かどうかわかりませんが)身も、容易に割り切れない、すぐに正解がわかることではないと思う。だから、寿一は泣いたのだ。だから、寿三郎も泣いたのだ。今生の別れでないにしても、いつでも親との別れは、切なくて苦しいのだ。それが、「親の介護」だと思う。
実に今回も、脚本家と演出家のタッグが上手く行っている!
さて、思うがままに綴って来たから、一息ついて、「いつもモード」でドラマとしての感想を書こうと思う。
まず、驚くべきは、どのエピソードも急展開であること。そして、殆どのエピソードが相当にシリアスなものばかりであること。そして、その上を行く驚きは、エピソードを詰め込んだことで、テンポが生まれて、各シリアスなエピソードの接着剤として、コミカルな描写を挿入することで、絶妙なメリハリとバランスの良さを創出したこと。
詰め込まれているのに、個々のエピソードがちゃんと印象に残っているのはお見事。やはり、脚本家と演出家のタッグが上手く行っているからだと思う。
あとがき
さて、寿三郎がグループホームに入所してしまったので、次週は何をやるのかと思いきや、また個性的がゲストを突っ込んで、騒動をやるようです。親や身内の介護を考えるドラマとしても良く出来ていますが、クドカン流のホームドラマとして、本当に完成度が高いと思います。
次週の感想は、恐らく遅れます。ただ、感染拡大次第で、今週末と同様にキャンセルになるかも… です。
また、今回は終盤に周産期のシーンがありました。土曜日勤務で病院に行っている “助産師” の妻が、本作をどう見るのか、そちらも私は楽しみです。
最後に、前回の感想に前々回の「46回」を上回る「71回」も、Web拍手を下さり(投稿時点で)、ありがとうございます。ブログを書き続ける励みにさせて頂いております。
オレンジさん、こんにちは。散歩友だちからケアマネさんの情報収集するのは良いと思います。ただ、怖がらせるわけではありませんが、こんなコロナ禍でも、介護の現場は、経営が難しく「介護される人」と探しているのが現状です。ですから、普通の人を装って、実は裏で介護施設と繋がっている人も多いので、用心は必要です。
出来れば、実際に介護を受けている人に聞くのが良いのですけれどね。でも、相性の良いケアマネさんやヘルパーさん、施設が見つかると良いですね。
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